遊びをせんとや生まれけむ、
絶望の淵に立っていたのは、もう2年も前のことだ。
自分より大切だと思った存在を奪われた後に、日常を生き続けられる人間はいるのだろうか。
吸い寄せられるように、光る街に溶け込んだ。
すれ違う男女の素敵過ぎる笑顔、大繁盛している眩しいコンビニ。
それらの行く末を想像して、現状の自分を肯定する。
今日は、客にチョコレートを与える任務がある日。
見返りが期待できる者の数だけ用意する、2つ。
売り場に掲げてあった大きな看板が目に留まった。
「愛する人に、気持ちを伝えよう!」
単純、ド直球。もうちょっと工夫したフレーズにならないものか。
少し笑えた瞬間、固く閉ざしていた蓋が緩んだ。
『(‥伝えたいよ。)』
景色が滲んできた。売り場に似合わぬ顔面を呈する前に去らねば。
『すみません、もう2つ下さい。』
戯れやせんとや生まれけん。
【あとがき】
月刊誌「電気と工事」のとある広告で “遊びをせんとや生まれけむ‥” ってフレーズが記載されており妙に琴線に触れて、気になって意味を調べた。平安時代末期の「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」って歌謡集の言葉らしい。この「遊びやせんとや生まれけむ」には二つの解釈があるとのこと。
【解釈その1】
遊びをしようとして、この世に生まれてきたのだろうか?
戯れをしようとして生まれてきたのだろうか?
遊んでいる子らの声を聴くと、私の体までもが自ずと動きだす。
人は、遊びをする様に生まれてきたのではないか。その証拠に、子ども達の声を聴くと身体が自ずと動くではないか‥なる解釈。
【解釈その2】
遊びをしようとして、わたしはこの世に生まれてきたのだろうか?
戯れをしようとして生まれてきたのだろうか?
無心に遊ぶ子どもの声を聴くと、私の身体も心もゆらいできてしまう。
こちらは遊女が歌ったバージョン。その “遊び” や “戯れ” の虚しさに、子どもの声を聴いて気付くといった意味合い。
2つの解釈、まさに “(2)項ハ” の語呂合わせに相応しいではありませんか。