7月21日から夏休み!
大人になった今でも、小学生の頃の「いつ夏休みが始まるか」って最重要情報が脳裏に焼き付いたまま。
学校に行かなくていい、あの退屈な授業を受けなくていい、そんな期間が1ヶ月。誰だよ、そんな最高のルール作った奴。
とは言っても、たまたま強豪だったバスケットボール部に所属してしまった為、夏休みは一日中練習もしくは試合だったので、むしろ夏休みの方が疲労は半端なかった。いつ、このキツイ練習が終わるのかと頻繁に時計を見ていた。『まだ15分しか経ってないの⁉』みたいな。
バスケットボールのユニホームの背番号は何故か1・2・3番が無くて、4番から始まる。だから大体どこのチームもキャプテンが4番をつける。ほら、スラムダンクのゴリも4番でしょ。
だけど、僕らのチームは何故かエースが7番を着けるって伝統があった。初めて対戦するチームは、この伝統に引っかかる。『あれ?4番がエースだと思ってたけど、7番の方が上手くない⁉』そう気づいたときには、既に7番に攻め込まれているって奇襲できる効果もあった。
特に僕らの代の7番は群を抜いて上手かった。たぶん当時の全国の小学生でも五本の指に入る位。
彼がキャプテンで、僕は副キャプテンだった。
その実力差は果てしなく大きかった。同じ練習をしているはずなのに、何故ここまで差が開くのか。今となってはスポーツには向き不向きや才能があったり、小学生の場合は身体の成長が早い者は有利だったり、納得できる理由を見つけれる。ただ当時は、単純に実力が違い過ぎる事実に嫌悪感しかなかった。
7番を着けられない存在だ、僕は。すぐに、そう気づけた。ちなみに、僕の背番号は9番だった。圧倒的エースの陰で、僕はチームの目標であった全国大会優勝を目指して、日々キツイ練習に取り組んだ。週4日、6:30から朝練があり、運動場を10周する走り込みがあった。その時もずっと本気で走り、ずっと1番でゴールしていた。本気で走れば僕より足の速い7番のエースや他のメンバーもいた。大人になってから『何で、あんな本気で走ってたん?』と聞かれたが、分からん!とにかく走っていた。
結局、三重県大会の決勝で敗れ、全国大会へ行くことはできなかった。ただ、最後の試合で『ここで負ければ、これまでの努力が全て無駄になる‥』と逃げ出したい位に緊張し、それを乗り越えて最高のパフォーマンスを発揮できたという経験が残った。自分は大きな緊張を乗り越えた先で最高のパフォーマンスが発揮できる人間だと分かった。
7番の彼は中学卒業後にバスケの名門である洛南高校へ進学し、その後に実業団へ入りプロとなった。一方の僕は、プロなんて全く狙えない実力ながらも、高専というニッチな学校のバスケ部のキャプテンをし、高専57校という限られた枠で開催された大会で全国優勝をした。
僕が着けていた9番は、別の後輩が後を継いで着けてくれた。ちなみに、その9番を着けてくれた後輩も日体大へ進学し、7番の彼と同じ実業団入りを果たしてプロとなった。
7番を着けるのは僕じゃない。でも、僕にもできることがある。学校では、そんな人生の事実を教わった。
【あとがき】
今でもエースが7番を着ける伝統は残っている、僕が所属していたミニバスケットボールクラブ。コーチは僕の第二の父親だった。コーチに教わったことが、今でも間違いなく活きている。たまたま、近くの学校のバスケ部に所属し、たまたま強豪だったことから僕の人生は大きく変わった。当時は何でこんなキツイ練習しなきゃいけないの⁉って思ってたけど、今となっては、あの時に幾つも壁を乗り越える経験ができたことは非常に有難いことだと思う。
今はインターネットも進歩して、子ども達が自分の通う学校すら選べる時代。より、その子にマッチした居場所で羽ばたければいいなと思う。そして、例え短期的に7番になれなかったとしても、現実を受け入れて鍛錬を続ければ、どこか別の分野で各々が7番になれる。(7)項 学校は、そんな7番マインドを育てる場所だ。